日本には、鎌倉仏教と呼ばれるものがありました。その中で、影響力が現代でも続いている仏教の1つが浄土真宗と呼ばれるものです。浄土真宗は、親鸞によって開かれましたが現在でもその考え方は親鸞会と呼ばれる団体によって受け継がれているのが特徴です。
親鸞会では、信心決定をすることにより救われるとしていますが、信心決定をした場合には未来に何が訪れるでしょうか。その中身を見ていきます。
人生の目的は様々でも共通しているものとは
人生の目的は人によって様々ですが、共通している目的があると親鸞会は述べています。人生の目的の1つは、なんといっても幸せに生きることでしょう。鎌倉時代は現代と違い、若いうちに多くの人が不幸を感じました。当時は、現代社会のように様々な医療技術が発達していたわけではありません。結果的に、子供の頃病気になって亡くなってしまった人も多かったわけです。また、食べるものも十分にあったわけではありません。少なくとも庶民レベルでは毎日のように飢餓に苦しんでいることも少なくありませんでした。
そこで、親鸞はそのような庶民の苦しみを取り除くために浄土真宗を作り上げたわけです。浄土真宗は、当時まだ庶民の間に広まっていなかった仏教をよりわかりやすい形で広めたのが大きな特徴になります。その考え方を、現在の親鸞会が広めている形です。
人は幸せに生きる権利があると考えており、それを阿弥陀仏に手を合わせて幸せを求めるだけで幸せになれるとしているのが現在の親鸞会の教えです。
信心決定とは一体どのような意味か
親鸞会では、人々が救われるように教えを広めていますが、この時重要になるのが信心決定と呼ばれるものになるわけです。信心決定はどのような意味かと言えば、阿弥陀仏を本気で信じることで自分は救われると考える事です。
ここに出てくる阿弥陀仏とは、お釈迦様が初めて見た仏様として知られています。仏様とは、あの世にいる人になりますので本来は明確な形で見える事はありませんが、はっきりと見えたとされています。親鸞もその教えを学び、それを当時の世の中に広めました。
では、信心決定とはどの段階で訪れるものでしょうか。これに関しては、明確な基準があるわけではありません。ある程度修行をしたお坊さんになると、はっきりと目の前に阿弥陀仏が現れなければ信心決定をしたとは言えないとされていました。
具体的には、毎日念仏を唱えて瞑想すると目の前に阿弥陀仏が現れるとしています。この時、他のお坊さんで既に仏の姿が見えている人にどのような姿だったかを口頭で伝えるようにしました。その人が見た阿弥陀の姿が他のお坊さんの見た阿弥陀の姿と一致していれば信心決定をしたとされています。
現在はそこまで厳格には考えられていない
信心決定をする場合でも、お坊さんの間では厳しい基準を設けていましたが、庶民の間ではそこまで求めていません。庶民が、阿弥陀如来の姿が明確に見えるようになるまで拝まなければいけないとすれば、ほとんどの人は信心決定をすることができないでしょう。
もともと、浄土真宗の生みの親として知られている親鸞は、庶民に流行しにくい仏教をよりわかりやすい形で広めた1人でした。今まで難しくてなかなか理解することができなかった仏教を、阿弥陀仏の前で念仏を唱えれば人々は救われて幸せになれると簡単に解釈するようにしたわけです。そのため、信心を決定をする場合でも非常に優しい基準を採用しています。救われたくて幸せを信じる心があれば、信心を決定したと呼べるわけです。
その未来にあるものは、幸せに生きる人間の姿と言えるでしょう。当然ながら、人間には様々な苦難がありますので、その度に手を合わせる必要があります。厳密に言えば、毎日手を合わせることが大事と考えられています。
現生正定聚とはどのような意味か
親鸞会の教えの中には、現生正定聚と呼ばれるものがあります。これは、阿弥陀様を信じることで、自分も将来仏様になれるといった教えになります。もともと、仏様の姿になることは多くのお坊さんの憧れでもありました。
人間には、さまざまな苦しみがあるとされています。お釈迦様は、人間には4つの苦しみがあるとしており、そのうちの1つが生まれることです。そして歳をとることや病気になること、さらには亡くなることも苦しみとしているわけです。これらの苦しみの先にあるものは、苦しみから解放された姿です。つまり仏様に手を合わせることで極楽浄土に行くことができると信じた人が、浄土真宗で熱心に活動しています。
現生正定聚の考えによれば、これは特別に修行した人ばかりが極楽浄土に行けるのではなく、とにかく親鸞の教えを信じて阿弥陀如来に手を合わせた人ならば誰でも仏様になり極楽浄土に行くとしています。現代でも親鸞会を通じてこのような考え方が広まっており、多くの人が病や命がなくなる事に対して恐れることなく過ごしていると言えるでしょう。
まとめ
親鸞会良いでは、人々に救いの手を述べるために様々な教えを説いています。現生正定聚と呼ばれる教えは、阿弥陀如来の前で手を合わせ信心を決定することでやがて極楽浄土に行くことができると述べています。
このような考え方が鎌倉時代から現代まで続いているのは、多くの人々は苦しみを感じているからと言えるでしょう。人間に訪れる様々な苦しみから解放されることを目的として、日々阿弥陀如来に手を合わせるわけです。